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手塚前派による、漫画評論、及び活動日記
本家→手塚前派・http://tedukazenha.com/
手塚前派的 漫画感想日記 5 (7)

各章を読み終えて

『テヅカ・イズ・デッド』を読み終えて感じたこと。

それは漫画は決して幼稚な表現方法ではないということ。
そして、それを向上させるために「映画的」「文学的」表現を取り入れる時代はもう終わったということです。

私は、戦後日本漫画が「物語」重視の「読み」に傾倒することに疑問を持ち続けてきました。

この本を書店で初めて見たとき、
「ようやく味方が現れた」という驚きと安堵感を覚えたほどです。

同時に『テヅカ・イズ・デッド』は「キャラ」と「キャラクター」の違いという、新しい概念を私に教えてくれました。
正直に言ってそれまで私の中に「萌え」や「やおい」といった漫画表現、それを含む漫画作品を蔑む感情があったことは否定できません。
しかしそれさえも、『テヅカ・イズ・デッド』を読むことにより「キャラ」という漫画表現本来の魅力を発見することができ、払拭することができました。
私に新しい漫画の楽しみ方を拡げてくれた著者には、大いに感謝しています。

・唯一気になった点

第3章

「キャラとは簡単な線画を基本とする図像によって表現されるものなのだ。「実在性」を議論するにしても、この前程から外れてはいけない。マンガにとって問題なのは、あくまでも「簡単な線画を基本とする図像」による表現なのである。
『テヅカ・イズ・デッド』 P114

という著者の意見。
この点に関しては私は賛同できません。
おそらく『地底国の怪人』の「キャラ」耳男が「キャラクター」に変化する際の説明を裏付けるものとしての言葉なのでしょうが、これでは漫画表現を非常に狭く限定されたものに押し込めてしまうのではないでしょうか。
それは著者とて望む状況ではないでしょう。

ずいぶんと長くなってしまいましたが、私はそれだけこの『テヅカ・イズ・デッド』という本が、現在の漫画界において重要であるということの、表れであったと考えています。


次回では、この『テヅカ・イズ・デッド』から読み取った内容から、1歩進んだ私なりの見解を示してみようと考えています。
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (6)

第5章 テヅカ・イズ・デッド―手塚治虫という「円環」の外で

手塚治虫が漫画の神として祭り上げられてしまった以上、戦後日本漫画史は手塚治虫を抜きに語ることができなくなってしまいました。

一人の人間が神になど、なれるわけがありません。

ビートルズやジョン・レノンを神と崇めていては、ロックミュージックは現在の多様性を持ち得なかったでしょう。

手塚治虫は決して神などではなく、ひとりの漫画家でしかありません。

私が手塚治虫を嫌いな理由は、その漫画作品にオリジナリティを感じないからです。
手塚は戦後の日本で、戦前の忘れ去られた日本のカルチャーと戦後入ってきた欧米のカルチャーをツギハギにして作品としました。(そして、私は90年代アニメシーンを席巻した『新世紀エヴァンゲリオン』にも同じ空気を感じます)。

手塚の絵柄はディズニーアニメそのものです。
手塚がそれを記号というのはかまわないのですが、それは手塚のディズニー信仰に近い好みに乗っ取った記号であり、とうてい普遍化できるものではありません。

手塚治虫が戦後なしえたことは、戦争によってバラバラになったカルチャーの良いところを集め、合成し、ひとつの作品としたことだと思うのです(そのセンス自体は高く評価できるところですし、それこそが手塚治虫という漫画家の根幹を成す部分かもしれません)。

それが新しい漫画表現の流れを生み出したことは確かでしょう、けれども結局それは漫画という表現自体を追及するものでなく、他のメディアの良い部分を積極的に取り入れ、漫画に置き換えてきた歴史ではないでしょうか。

手塚治虫自身が語るように、手塚の漫画は戦前の漫画家たちにとっては異端だったのです。
それは新しい表現というより、メインストリームからはみ出した支流のように私には感じられます。

手塚治虫もまた、『新世紀エヴァンゲリオン』の監督、庵野秀明に負けず劣らない極度の「オタク」であったのではないでしょうか。

著者は『GUNSLINGER GIRL』において、手塚治虫の『地底国の冒険』に始まった「マンガのおばけ」が「人間」という「キャラクター」に変容する歴史が閉じていると論じます。

なぜなら『GUNSLINGER GIRL』において少女たちは表面上は「人間」でありながら、逆に「キャラクター」を剥奪され、「キャラ」という存在として描かれているからなのです。

さらに『GUNSLINGER GIRL』著者、相田裕がそうであるように、私自身もゲーム世代であり、TRPGというゲームを経験しています。
TRPGとはまず、自身の「キャラ」をつくり、それを動かす「物語」を作り、その「物語」の中で「キャラ」を動かす遊びです。
このように「キャラ」が「物語」に先行するという経験は、70年代後半〜80年代前半に生まれた、我々第3オタク世代と呼ばれる世代には、ごくあたりまえの経験だったのではないでしょうか。

そう考えれば、現在の漫画同人誌の大半を「2次創作」の作品が占めることに、なんの不思議もないということが分かってきます。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (5)

第4章 マンガのリアリティ

この章で著者は、手塚治虫の『地底国の怪人』から導き出した「戦後漫画はなぜ「キャラ」の持つ「現前性」という漫画表現のキモともいえる部分を隠蔽し「近代的リアリズム」を求めたのか?」
という疑問の答えを拡大し、いよいよ「漫画そのものの表現とはなにか?」という核心に迫っていきます。

現在の漫画が「漫画でありながら漫画たりえない原因」それはいったい何なのでしょうか?
例えば60年代の『ガロ』などに掲載された漫画作品が渇望した

「マンガを文学の域に達するものにしたい」
( 『テヅカ・イズ・デッド』 P145)

という心情吐露。それは「映画」「文学」が持っているとされる「リアリズムの獲得」を意味していたのです。

「リアルに」「人間を」描きたい、という欲望
( 『テヅカ・イズ・デッド』 P145)

これこそが戦後、手塚治虫に端を発した漫画の「物語」重視の「読み」を生みだした元凶だったです。

手塚治虫が「映画」の「リアリズム」を自身の漫画作品に組み込もうとしたとき、必然としてそのような「描写」が生まれ、戦後日本漫画は(戦前にも見られた)「映画的」表現をより積極的に取り入れ、漫画固有の表現を隠蔽した。
それは戦後、日本漫画を隆盛させることにもなったのですが、同時に失うものも大きく…現在まで漫画の表現史を書くことを阻害し続けてきた原因となりました。

著者は『テヅカ・イズ・デッド』の中で長い説明を経て、ようやくここにきて漫画表現の構造を分析し、書くことができる段階に辿り着いたのです。

まず著者は、従来「コマわり」「コマ構成」「コマ展開」と様々に表現されてきた「コマ」に対するあいまいな言葉を「コマ構造」という概念を導入することで、そこに組み込みます。

まず「「コマわり」とは何か?」という著者の見解から話は始まります。

著者が提案する「コマわり」とは、

「コマわり」=「紙面をどのように分割しているか、そして複数のコマの「連続」であること」

であるとし、さらに「コマわり」にはふたつの側面が存在すると提案します。

ふたつの側面
「コマ構成」=コマの内部に何が描かれているか問題にしない
「コマ展開」=コマ内に描かれているものによって「連続」の意味が変わってくる

そして四方田犬彦の『漫画原論』から、岡本喜八の映画『日本でいちばん長い日』の撮影に使用されたデクパージュを描いた「絵コンテ」と、林静一の漫画、『花さく港』を比較した箇所を引用し、映画のデクパージュを自身の提案した「コマ展開」にあてはめています。

デクパージュとは?

■ デクパージュ
映画の画面構成、ショットの配列を指すフランス語。「古典的デクパージュ」とは、昔のハリウッド映画のスタイルである、なめらかな語り口を指すフランス語の呼称。
より引用させていただきました。

著者は映画における「デクパージュ」が、漫画制作において発生する「ネーム」に相当すると主張します。

そして漫画表現の固有性がまず「ネーム」に存在し、それを分析することで漫画表現を構成するものが見えてくるとします。
P158には「ネーム」の例図が掲載されており、そこから見えてきた要素として、

1.コマ構成
2.フキダシ
3.描き文字
4.キャラ「顔」をはじめとする有意味な描画

を上げています。

そして著者は、この「ネーム」を「コマわり」とほぼ同義語としています。
(私としては「ネーム」を「コマ展開」に、その後「ネーム」再構成したものを「コマわり」と位置付けたほうがしっくりくると思うのですが…)

各時代によって変化してきた「コマわり」の呼称。
こういった概念を整理することによって、漫画表現の流れを掴み取ることができるようになるのです。

整理の上に見えてきたもの、それは「近代リアリズムの獲得」それ以降を「マンガ史」とする漫画歴史観です。

そういった漫画歴史観こそが、手塚治虫の『新宝島』に起源を求め、神話化させてしまうという根深き問題を引き起こしているのです。

その点について著者は、『新宝島』と「同一化技法」という題で、竹内オサムの漫画評論を中心に漫画に導入された「同一化技法」を仔細に分析することで、「新宝島起源説」が間違いであると指摘しています。

その内容の一部、『汽車旅行』に関して語られていることは、私が「手塚前派的 漫画感想日記 4」で書いたこととほぼ同じです。(というより、かなり参考にさせていただきました)

コマ割に関する解釈を通して、著者は戦後日本漫画に起きた、映画的手法の積極的な導入による混乱を冷静に見つめていきます。

現在の漫画評論は、その技術を説明する共通した言語すら確立されていない目も当てられない状況で行われています。それによって各評論家は独自の表現を用いることになり、それが原因で評論家同士の食い違いが生じ、争いの原因にまで発展しているのです。
これは、もう漫画評論家の怠慢から生じたといってさしつかえない。漫画が誕生して100年以上経つのですから…一体なにを論じてきたのかと頭を抱えてしまいます。

著者は漫画の「コマ」という概念を分析、分類することで、そのような混乱を招かぬよう言語の共通化をはかろうとします。

例えば70年代に、劇画という漫画表現の新しい流れが登場したとき、劇画作家たちは「構図」という概念を漫画に当てはめ、コマの外に「カメラ」を常に意識するという現在の日本漫画表現の規範を作り出しました。
そして、それは小池一夫塾などによって定式化され、商業誌を通じて広められることになります。

この「カメラ」という視点の導入こそ、戦後日本漫画表現に変化と混乱を生み出した最大の原因といえるでしょう。

次に著者は「漫画は映画的であるが、それほど映画的ではない」とし、その理由として漫画の「コマ」の「フレームの不確定性」を上げています。

「フレームの不確定性」を文章で説明するのは難しいのですが、あえていうなら著者のいう、「コマ構成」=「紙面」という概念、これが漫画を鑑賞するさいの、最大のフレームになります。その中に「コマ」という最小の単位が(単位として最小なのであって、サイズが最小なのではない)、いくつも存在していて、それもまたフレームとして機能しているために「フレームの不確定性」が生じるということなのです。

「フレームの不確定性」の説明については、『テヅカ・イズ・デッド』を直接読んでいただかなければ、なかなか理解しがたいと思いますので、ぜひ読んで下さい。

このように漫画表現を漫画表現で評論するというのは、とても有効な方法です(そうでなければ説明できない事のほうが多いくらいです)。『テヅカ・イズ・デッド』はそういった点でも非常に新しいスタンダードな漫画評論の形を提案していて、本当に感心します。

現在の漫画表現のスタンダード=「映画的手法」を用い「コマ」に「カメラ」という目線を持たせる。
という表現は、「フレーム」を「コマ」に定着させることで、成り立っています。

しかしながら、漫画本来の「フレームの不確定性」は固有のものとして依然、残り続けているのです。

「キャラのリアリティ」と「フレームの不確定性」の説明を終えた著者は、映画理論を参照して、もう一度漫画表現における「同一化技法」を洗いなおします。
そして「同一化技法」が「映画的手法」を用いた漫画表現の根幹をなす部分ではないかと示唆しています。

映画において「フレーム」と「カメラ」というものが互いに不可分なものであるのに対して、漫画には「フレームの不確定性」が存在しているために、様々な「読み」を可能にしてしまいます。
これを「映画的」な「読み」に限定して論じてしまっているのが現在の漫画シーンの問題なのです。

何故なら「キャラのリアリティ」と「フレームの不確定性」という要素は依然として残り続けているのですから、そして、そこにも漫画の面白さ、楽しさ、豊かさがまぎれもなく存在するからです。

・少女漫画と「映画的」ではないリアリズム P220

大友克洋の漫画表現の変容についての話が面白いです。
大友克洋は漫画史において、美術史に置き換えればギュスターヴ・クールベの「写実主義」に相当する役割を果たしたのではないでしょうか。

大友克洋も24年組も「リアリズムの志向」という点では同じであるという著者の論、非常に的を得ていると思います。

少年、青年漫画=「映画的」リアリズムへの志向
少女漫画=「文学的」リアリズムへの志向

この傾向が強く表われているわけですね。

少女漫画のコマ構成についての著者の分析も、異論はまったく無いです。

宮崎駿が「少女漫画で育った映画監督はダメだ」という発言をしていましたが、まさにこの「フレームの不確定性」の論を裏付ける発言ではないでしょうか?
少女漫画が映画に劣るという意味ではなく「固定されたフレーム」を持つ映画で「リアリズム」を描くのに少女漫画の表現というのは不向きなのですね。

著者がその特徴として上げる「装飾性」「内面」という少女漫画の特徴は、美術表現で例えると「象徴絵画」や「ナビ派」に近い表現だと感じます。

そして「マンガ的主体」による「成熟」これは私も目指すところです。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (4)

第3章 「キャラクター」とは何か

前の章で展開された、漫画を構成する3要素は「キャラ」「コマ構造」「言葉」であるという論を、著者はさらに掘り下げていきます。

私たちがマンガを読み「面白い」と思うとき、必ずしも主題のレヴェル、「何」が描かれているかにだけ反応しているとはいえない。私たちは、間違いなく「どう」描かれているかに反応している。
『テヅカ・イズ・デッド』82Pより

これはまさにその通りで、記号論という戦後日本漫画にとりついた呪縛が、漫画の表現論をいかに阻害してきたかをピタリと言い当てています。

ここでは「快楽」というキーワードが肯定的に書かれています。
漫画を読むという行為の中に様々な「快楽」の要素が存在しているという考えです。

ともすれば日本人はこの「快楽」というキーワードに非常に否定的なイメージを感じとるかもしれません。しかしながら我々が表現というものを享受するとき「快楽」というもっとも人間の根源的部分を刺激されているのは、まぎれもない事実なのです。

次に著者は「キャラクター」というものを論じる前程として、漫画における「リアリティ」という問題に触れ、映画の「リアリティ」を例に出して漫画と比較しています。

戦後日本漫画において「映画的」であるということが、ひとつの誉め言葉として機能してきましたが、そもそも実際の風景や人物を素材としている実写映画の表現方法として追求してきた「リアリティ」と、虚構であるということを前提に享受されている漫画の「リアリティ」では、比較して論じるさいに実写映画の方法論をそのまま当て込んで考えることは難しいのではないでしょうか。

「映画的」「文学的」という形容が自立した表現を意味するものとして漫画に付随して使用されるとき、誉め言葉として機能しているのに対し、「漫画的」な漫画という形容がそもそも自立した表現を意味していないことは、漫画という表現に対する無意識の差別心の現れだと考えます。
そして、実は「漫画的」という形容こそが、漫画という表現の根幹に関わってくる部分なのではないでしょうか?

著者はその点を「キャラ」という存在を通じて論じることで、解き明かしていきます。
なおかつ「キャラクター」と「キャラ」を別のものとして分離します。
それによって戦後日本漫画において「キャラクター」と「キャラ」という概念がどのように区別され、使用されてきたのかが理解できるのです。

この部分も、著者の提案する漫画における「キャラ」という概念を説明する大変重要な部分になっています。

「キャラクター」とは漫画における「物語」というテキストから分離していないもの、それすなわち「人格をもった身体の表現」に他なりません。
「キャラクター」が立つことを、重視して制作された漫画は、その読みを、「人間が描かれているかどうか」という事に限定したものにしてしまう危険性を孕んでいるのです。

それをふまえて語られる、矢沢あいの漫画、『NANA』をモデルに比較した「キャラクター」と「キャラ」の違いの話はとても面白いです。

『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている。

この一見、謎解きのような言葉を理解することによって、現在の漫画の読みにおいてレヴェルの低いものとみなされている「キャラ萌え」を、漫画を構成する要素の一つとして読み取ることが可能になります。

さらには同人誌等でさかんに行われている、「2次創作」という行為を漫画表現の恥部のように扱い、隠蔽することなく「何故そのような表現がここまで拡大し、さかんに行われているのか?」という事実をキチンと語ることができるようになるのです。
(漫画評論はここにおいて、ようやく現在の日本の漫画シーンに追いついたのです!)

さらに著者は宮本大人の論を借り、日本漫画における「キャラ」の成立の起源を『正チャンの冒険』の「正チャン」に求めます。その上で宮本大人が提示した、「キャラクターを成立させる六つの要素」を発展させ、「プロトタイプキャラクター性」という概念を創りだします。

それによって、
「マンガのモダン」=「プロトタイプキャラクター」
「マンガのポストモダン」=「キャラクター」
という図式が成立し、日本漫画が手塚治虫以前、以後によって分断された原因がなんであったのかという部分に、ようやく焦点を当てることができるようになったのです。

漫画という表現において始めに存在したのは「キャラ」であり、「キャラクター」は存在しなかった。
では、一体いつ「キャラクター」は誕生したのでしょうか?

著者はその起源を、手塚治虫の『地底国の怪人』に見出しています。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 04:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (3)

第2章 切断線を超えるもの―いがらしみきお『ぼのぼの』の実践

マンガ批評誌『COMIC BOX』の特集「まんがは終わったのか?」(1995年7月号)
この特集の中での、いがらしみきおの「漫画は終わった」という発言を中心に第2章は展開していきます。

この特集号は私もリアルタイムで読みました。
いがらしみきおの発言は、ひとりだけ奇妙だったので印象に残っています。

「物語が終わってしまった」と、いがらしみきおは言います。

これには私も同意見です。
漫画における物語は『風の谷のナウシカ』漫画版、『AKIRA』によってすでにその役割りを終えていると考えています(宮崎駿は言うに及ばず、大友克洋も漫画家であるというより、現在はアニメーションという映像畑の人物であるということも、漫画における物語の終わりを示唆しているようで私的に興味深いところです)。

いがらしみきおは、漫画が「翻訳し再構成するもの」という役割りを終えて、その役割りがすでに他のメディアに受け継がれたとも発言しています。

著者はいがらしみきおが次の漫画表現としての「データベース」という概念を選び取ったこと、それを東浩紀の「動物化するポストモダン」という考えと結びつけ、物語の解体を感じ取った、いがらしみきおが『ぼのぼの』という作品において何を描いたかという点を分析していきます。

(このあたりが読んでいて、文章の流れが非常に上手く、「物語というテキストから遊離していくキャラ」→「キャラの自立化」という著者の提案する概念が、『ぼのぼの』という作品を通じて分かりやすく説明されています。
またそれが、次章で語られる「キャラクターとは何か?」という問題に繋がっていて、とても理解しやすいです)

そこから、我々が「キャラ」というものを、いかに無自覚に楽しんでいるか、享受しているかということが明らかになっています。

著者は『ぼのぼの』に日本漫画の「ポストモダン」を見いだし、またそれを起点とすることで日本漫画の「モダン」も見えてくるのだと語ります。
「マンガという表現は近代の産物である」という著者の考えに、私は大いに賛同します。

「全体性をも保ちながら巨大化してきた「まんが」が、ここにきて一気に拡散し「解体」に向かいつつある」
『まんが解体新書 手塚治虫のいない日々のために』/村上知彦

この言葉から著者は戦後漫画の「ある種の全体性」という思想の存在を読み取っています。
(これが現在、漫画の読みを「物語」という角度からしか分析できない原因となっていると私は考えています)

そして漫画の構造分析に話は移るのですが、漫画を構成する要素として著者が提案するのが、「キャラ」「コマ構造」「言葉」の3要素です。
私はこの部分がこの『デヅカ・イズ・デッド』の中で、一番特筆すべき点だと考えているのですが、斉藤宣彦による漫画の構成要素が「絵」「コマ」「言葉」であったのに対し、かなり進んだ見解を示していて、とても刺激を受けました。

その漫画構造のモデルを当てはめれば、『ぼのぼの』『あずまんが大王』などにおいて「四コママンガ」が起承転結から離脱し、「ストーリー四コマ」という新たな表現を獲得したという著者の考えも納得がいきます。

最後に著者は、自身の提案した「キャラ」「コマ構造」「言葉」の3要素を核にし、そこに作者、読者、さらに社会環境などを配置した、漫画表現総体のモデルを図で示してみせます。
これによっていままでの漫画評論などに欠けていた要素が何であったのか、分かりやすく説明されています。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 04:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (2)

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

第1章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説

ここで主に語られているのは、マンガ言説がなぜ現状に対応できないのか?
という問題です。

その理由は、漫画の面白さを、読み手は共有するべきであるという思想が存在するからです。

著者はまず読みの多様性という点に着目し、少年ジャンプの漫画、『ONE PIECE』を例に挙げてそれを説明しています。
そこで浮き彫りになるのは、物語偏重の読み手による、いわゆるキャラクター重視の読み手への偏見です。
漫画の読みにおいて多元的な快楽を享受することは、いまだ公には認められていないのです。

著者はポピュラー音楽の楽しみ方を引き合いに出し、それが間違いではないかと提案します。
この点は私も非常に共感する部分です。

そして現在の漫画言説がまったく触れてこなかった、ガンガン系と呼ばれる、漫画作品についても言及していきます。
それを通じて漫画におけるジャンルというものが、表現の上での分類ではなく、非常に曖昧な基準の上に成り立っているということを明らかにしていきます。

個人的なエピソードを一つ。

私が書店で働いていた時、このような経験をしたことがあります。

外国人の方に「現在、日本で1番売れている漫画は何か?」と訊かれました。
そこで、その当時1番売上があった『鋼の錬金術師』を紹介していたところ、横にいた日本人の女性から「それはコアな漫画であるから違う」と横槍が入ったのです。
当時100万部以上を売っていた漫画を指し示し「コア」という言葉がなぜその女性から出てきたのでしょう?

漫画には明確な価値基準が無い為に、各々の主観的な思い込みによって格付けが行われてしまいます。
漫画を冷静に評価し、分析するという行為を1番妨げているのは実はこういった「かくあるべし」という考えに基づいたイデオロギーによる偏見の目なのではないでしょうか。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 04:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (1)
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

さて、ようやく前回「記号論」についての簡単な説明をすることが出来たので、本題の『テヅカ・イズ・デッド-ひらかれたマンガ表現論へ-』について触れることができるようになりました。

ひと言でいいますと、

名著であります。

その1番理由としては、漫画に明確な価値基準を求めた点。
ここがやはり、いままでの漫画評論とは一味違います。

私は書店で働いていた経験がありますが、漫画というものには権威が存在しません。
よって売れるということが漫画にとって唯一の評価の基準なのです。
それは漫画の神と称される、手塚治虫とて例外ではありません。
売れなければ、どんどんとスペースが減らされていきます。

結果、売り手は漫画は面白ければ売れる、面白くなければ売れないという単純二極化した判断しかできなくなってしまいます。

その漫画がなぜ面白いかということを分析する言語を持てないのです。
結果として印象でしか漫画に評価を与える事ができません。

これは、書店員に限った話をしているのではありません。
漫画家、編集者、読者、およそ漫画に関わるすべての人にとって共通する問題といってもいいでしょう。
そして、それこそが現在の漫画業界が抱える最大の問題であり、謎でもありました。

その答えに挑戦したのがこの『テヅカ・イズ・デッド-ひらかれたマンガ表現論へ- 』なのです。

著者の非常に勇気ある素晴らしい行動に、賞賛を送りたいと思います。

それでは『テヅカ・イズ・デッド-ひらかれたマンガ表現論へ- 』はいかにしてその謎を解き明かしていったのでしょうか。
各章ごとに私なりの感想を、書き記していきたいと思います。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 04:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |