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手塚前派による、漫画評論、及び活動日記
本家→手塚前派・http://tedukazenha.com/
ペンネーム
変えました。

手塚前派代表

宇異座間 景

と名乗らせていただきます。

以後お見知りおきを。
| - | 03:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
COMITIA77


参加いたします。

スペースNo. な05b

です。

日程は2006年8月27日(日)11:00〜15:30
場所は有明・東京ビッグサイト東6ホール


お暇な方はどうぞ、遊びにきてみてください。

よろしくどうぞ♪

| 手塚前派活動報告 | 01:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (7)

各章を読み終えて

『テヅカ・イズ・デッド』を読み終えて感じたこと。

それは漫画は決して幼稚な表現方法ではないということ。
そして、それを向上させるために「映画的」「文学的」表現を取り入れる時代はもう終わったということです。

私は、戦後日本漫画が「物語」重視の「読み」に傾倒することに疑問を持ち続けてきました。

この本を書店で初めて見たとき、
「ようやく味方が現れた」という驚きと安堵感を覚えたほどです。

同時に『テヅカ・イズ・デッド』は「キャラ」と「キャラクター」の違いという、新しい概念を私に教えてくれました。
正直に言ってそれまで私の中に「萌え」や「やおい」といった漫画表現、それを含む漫画作品を蔑む感情があったことは否定できません。
しかしそれさえも、『テヅカ・イズ・デッド』を読むことにより「キャラ」という漫画表現本来の魅力を発見することができ、払拭することができました。
私に新しい漫画の楽しみ方を拡げてくれた著者には、大いに感謝しています。

・唯一気になった点

第3章

「キャラとは簡単な線画を基本とする図像によって表現されるものなのだ。「実在性」を議論するにしても、この前程から外れてはいけない。マンガにとって問題なのは、あくまでも「簡単な線画を基本とする図像」による表現なのである。
『テヅカ・イズ・デッド』 P114

という著者の意見。
この点に関しては私は賛同できません。
おそらく『地底国の怪人』の「キャラ」耳男が「キャラクター」に変化する際の説明を裏付けるものとしての言葉なのでしょうが、これでは漫画表現を非常に狭く限定されたものに押し込めてしまうのではないでしょうか。
それは著者とて望む状況ではないでしょう。

ずいぶんと長くなってしまいましたが、私はそれだけこの『テヅカ・イズ・デッド』という本が、現在の漫画界において重要であるということの、表れであったと考えています。


次回では、この『テヅカ・イズ・デッド』から読み取った内容から、1歩進んだ私なりの見解を示してみようと考えています。
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (6)

第5章 テヅカ・イズ・デッド―手塚治虫という「円環」の外で

手塚治虫が漫画の神として祭り上げられてしまった以上、戦後日本漫画史は手塚治虫を抜きに語ることができなくなってしまいました。

一人の人間が神になど、なれるわけがありません。

ビートルズやジョン・レノンを神と崇めていては、ロックミュージックは現在の多様性を持ち得なかったでしょう。

手塚治虫は決して神などではなく、ひとりの漫画家でしかありません。

私が手塚治虫を嫌いな理由は、その漫画作品にオリジナリティを感じないからです。
手塚は戦後の日本で、戦前の忘れ去られた日本のカルチャーと戦後入ってきた欧米のカルチャーをツギハギにして作品としました。(そして、私は90年代アニメシーンを席巻した『新世紀エヴァンゲリオン』にも同じ空気を感じます)。

手塚の絵柄はディズニーアニメそのものです。
手塚がそれを記号というのはかまわないのですが、それは手塚のディズニー信仰に近い好みに乗っ取った記号であり、とうてい普遍化できるものではありません。

手塚治虫が戦後なしえたことは、戦争によってバラバラになったカルチャーの良いところを集め、合成し、ひとつの作品としたことだと思うのです(そのセンス自体は高く評価できるところですし、それこそが手塚治虫という漫画家の根幹を成す部分かもしれません)。

それが新しい漫画表現の流れを生み出したことは確かでしょう、けれども結局それは漫画という表現自体を追及するものでなく、他のメディアの良い部分を積極的に取り入れ、漫画に置き換えてきた歴史ではないでしょうか。

手塚治虫自身が語るように、手塚の漫画は戦前の漫画家たちにとっては異端だったのです。
それは新しい表現というより、メインストリームからはみ出した支流のように私には感じられます。

手塚治虫もまた、『新世紀エヴァンゲリオン』の監督、庵野秀明に負けず劣らない極度の「オタク」であったのではないでしょうか。

著者は『GUNSLINGER GIRL』において、手塚治虫の『地底国の冒険』に始まった「マンガのおばけ」が「人間」という「キャラクター」に変容する歴史が閉じていると論じます。

なぜなら『GUNSLINGER GIRL』において少女たちは表面上は「人間」でありながら、逆に「キャラクター」を剥奪され、「キャラ」という存在として描かれているからなのです。

さらに『GUNSLINGER GIRL』著者、相田裕がそうであるように、私自身もゲーム世代であり、TRPGというゲームを経験しています。
TRPGとはまず、自身の「キャラ」をつくり、それを動かす「物語」を作り、その「物語」の中で「キャラ」を動かす遊びです。
このように「キャラ」が「物語」に先行するという経験は、70年代後半〜80年代前半に生まれた、我々第3オタク世代と呼ばれる世代には、ごくあたりまえの経験だったのではないでしょうか。

そう考えれば、現在の漫画同人誌の大半を「2次創作」の作品が占めることに、なんの不思議もないということが分かってきます。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
手塚前派的 漫画感想日記 5 (5)

第4章 マンガのリアリティ

この章で著者は、手塚治虫の『地底国の怪人』から導き出した「戦後漫画はなぜ「キャラ」の持つ「現前性」という漫画表現のキモともいえる部分を隠蔽し「近代的リアリズム」を求めたのか?」
という疑問の答えを拡大し、いよいよ「漫画そのものの表現とはなにか?」という核心に迫っていきます。

現在の漫画が「漫画でありながら漫画たりえない原因」それはいったい何なのでしょうか?
例えば60年代の『ガロ』などに掲載された漫画作品が渇望した

「マンガを文学の域に達するものにしたい」
( 『テヅカ・イズ・デッド』 P145)

という心情吐露。それは「映画」「文学」が持っているとされる「リアリズムの獲得」を意味していたのです。

「リアルに」「人間を」描きたい、という欲望
( 『テヅカ・イズ・デッド』 P145)

これこそが戦後、手塚治虫に端を発した漫画の「物語」重視の「読み」を生みだした元凶だったです。

手塚治虫が「映画」の「リアリズム」を自身の漫画作品に組み込もうとしたとき、必然としてそのような「描写」が生まれ、戦後日本漫画は(戦前にも見られた)「映画的」表現をより積極的に取り入れ、漫画固有の表現を隠蔽した。
それは戦後、日本漫画を隆盛させることにもなったのですが、同時に失うものも大きく…現在まで漫画の表現史を書くことを阻害し続けてきた原因となりました。

著者は『テヅカ・イズ・デッド』の中で長い説明を経て、ようやくここにきて漫画表現の構造を分析し、書くことができる段階に辿り着いたのです。

まず著者は、従来「コマわり」「コマ構成」「コマ展開」と様々に表現されてきた「コマ」に対するあいまいな言葉を「コマ構造」という概念を導入することで、そこに組み込みます。

まず「「コマわり」とは何か?」という著者の見解から話は始まります。

著者が提案する「コマわり」とは、

「コマわり」=「紙面をどのように分割しているか、そして複数のコマの「連続」であること」

であるとし、さらに「コマわり」にはふたつの側面が存在すると提案します。

ふたつの側面
「コマ構成」=コマの内部に何が描かれているか問題にしない
「コマ展開」=コマ内に描かれているものによって「連続」の意味が変わってくる

そして四方田犬彦の『漫画原論』から、岡本喜八の映画『日本でいちばん長い日』の撮影に使用されたデクパージュを描いた「絵コンテ」と、林静一の漫画、『花さく港』を比較した箇所を引用し、映画のデクパージュを自身の提案した「コマ展開」にあてはめています。

デクパージュとは?

■ デクパージュ
映画の画面構成、ショットの配列を指すフランス語。「古典的デクパージュ」とは、昔のハリウッド映画のスタイルである、なめらかな語り口を指すフランス語の呼称。
より引用させていただきました。

著者は映画における「デクパージュ」が、漫画制作において発生する「ネーム」に相当すると主張します。

そして漫画表現の固有性がまず「ネーム」に存在し、それを分析することで漫画表現を構成するものが見えてくるとします。
P158には「ネーム」の例図が掲載されており、そこから見えてきた要素として、

1.コマ構成
2.フキダシ
3.描き文字
4.キャラ「顔」をはじめとする有意味な描画

を上げています。

そして著者は、この「ネーム」を「コマわり」とほぼ同義語としています。
(私としては「ネーム」を「コマ展開」に、その後「ネーム」再構成したものを「コマわり」と位置付けたほうがしっくりくると思うのですが…)

各時代によって変化してきた「コマわり」の呼称。
こういった概念を整理することによって、漫画表現の流れを掴み取ることができるようになるのです。

整理の上に見えてきたもの、それは「近代リアリズムの獲得」それ以降を「マンガ史」とする漫画歴史観です。

そういった漫画歴史観こそが、手塚治虫の『新宝島』に起源を求め、神話化させてしまうという根深き問題を引き起こしているのです。

その点について著者は、『新宝島』と「同一化技法」という題で、竹内オサムの漫画評論を中心に漫画に導入された「同一化技法」を仔細に分析することで、「新宝島起源説」が間違いであると指摘しています。

その内容の一部、『汽車旅行』に関して語られていることは、私が「手塚前派的 漫画感想日記 4」で書いたこととほぼ同じです。(というより、かなり参考にさせていただきました)

コマ割に関する解釈を通して、著者は戦後日本漫画に起きた、映画的手法の積極的な導入による混乱を冷静に見つめていきます。

現在の漫画評論は、その技術を説明する共通した言語すら確立されていない目も当てられない状況で行われています。それによって各評論家は独自の表現を用いることになり、それが原因で評論家同士の食い違いが生じ、争いの原因にまで発展しているのです。
これは、もう漫画評論家の怠慢から生じたといってさしつかえない。漫画が誕生して100年以上経つのですから…一体なにを論じてきたのかと頭を抱えてしまいます。

著者は漫画の「コマ」という概念を分析、分類することで、そのような混乱を招かぬよう言語の共通化をはかろうとします。

例えば70年代に、劇画という漫画表現の新しい流れが登場したとき、劇画作家たちは「構図」という概念を漫画に当てはめ、コマの外に「カメラ」を常に意識するという現在の日本漫画表現の規範を作り出しました。
そして、それは小池一夫塾などによって定式化され、商業誌を通じて広められることになります。

この「カメラ」という視点の導入こそ、戦後日本漫画表現に変化と混乱を生み出した最大の原因といえるでしょう。

次に著者は「漫画は映画的であるが、それほど映画的ではない」とし、その理由として漫画の「コマ」の「フレームの不確定性」を上げています。

「フレームの不確定性」を文章で説明するのは難しいのですが、あえていうなら著者のいう、「コマ構成」=「紙面」という概念、これが漫画を鑑賞するさいの、最大のフレームになります。その中に「コマ」という最小の単位が(単位として最小なのであって、サイズが最小なのではない)、いくつも存在していて、それもまたフレームとして機能しているために「フレームの不確定性」が生じるということなのです。

「フレームの不確定性」の説明については、『テヅカ・イズ・デッド』を直接読んでいただかなければ、なかなか理解しがたいと思いますので、ぜひ読んで下さい。

このように漫画表現を漫画表現で評論するというのは、とても有効な方法です(そうでなければ説明できない事のほうが多いくらいです)。『テヅカ・イズ・デッド』はそういった点でも非常に新しいスタンダードな漫画評論の形を提案していて、本当に感心します。

現在の漫画表現のスタンダード=「映画的手法」を用い「コマ」に「カメラ」という目線を持たせる。
という表現は、「フレーム」を「コマ」に定着させることで、成り立っています。

しかしながら、漫画本来の「フレームの不確定性」は固有のものとして依然、残り続けているのです。

「キャラのリアリティ」と「フレームの不確定性」の説明を終えた著者は、映画理論を参照して、もう一度漫画表現における「同一化技法」を洗いなおします。
そして「同一化技法」が「映画的手法」を用いた漫画表現の根幹をなす部分ではないかと示唆しています。

映画において「フレーム」と「カメラ」というものが互いに不可分なものであるのに対して、漫画には「フレームの不確定性」が存在しているために、様々な「読み」を可能にしてしまいます。
これを「映画的」な「読み」に限定して論じてしまっているのが現在の漫画シーンの問題なのです。

何故なら「キャラのリアリティ」と「フレームの不確定性」という要素は依然として残り続けているのですから、そして、そこにも漫画の面白さ、楽しさ、豊かさがまぎれもなく存在するからです。

・少女漫画と「映画的」ではないリアリズム P220

大友克洋の漫画表現の変容についての話が面白いです。
大友克洋は漫画史において、美術史に置き換えればギュスターヴ・クールベの「写実主義」に相当する役割を果たしたのではないでしょうか。

大友克洋も24年組も「リアリズムの志向」という点では同じであるという著者の論、非常に的を得ていると思います。

少年、青年漫画=「映画的」リアリズムへの志向
少女漫画=「文学的」リアリズムへの志向

この傾向が強く表われているわけですね。

少女漫画のコマ構成についての著者の分析も、異論はまったく無いです。

宮崎駿が「少女漫画で育った映画監督はダメだ」という発言をしていましたが、まさにこの「フレームの不確定性」の論を裏付ける発言ではないでしょうか?
少女漫画が映画に劣るという意味ではなく「固定されたフレーム」を持つ映画で「リアリズム」を描くのに少女漫画の表現というのは不向きなのですね。

著者がその特徴として上げる「装飾性」「内面」という少女漫画の特徴は、美術表現で例えると「象徴絵画」や「ナビ派」に近い表現だと感じます。

そして「マンガ的主体」による「成熟」これは私も目指すところです。

続く
| 『テヅカ・イズ・デッド』を読んで | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |